立ち別れいなばの山の峰に生ふる まつとし聞かば今帰り来む  この大学に文学部はない。けれど、好きな学生は好きだし、好きな先生も好きだ。だから、偶然さえ作用すれば和歌を覚えて帰ることもある。 「それで急に変なこと言い出したのか」 「変は余計よ」  大学の帰り、私と彼は大学と駅の間にある喫茶店で、そんな他愛もない話をしていた。  今日の私は上機嫌で、彼もそれを察したのかいつもより迂闊な口を利いてくれる。  先程から『彼』と呼んでいるけれど、今向かいでコーヒーを啜って(啜るな)いる彼が私にとってsteadyの『彼』かどうかは、ちょっと微妙だった。  ただ、あと少しもう少しと時間を共にしていけば、それは限りなく断言に近づいて行くだろう。彼は明らかに私に気があるし、私も…………いや、私のことはいいのだ。 「ところでさ、冬休みに入るわけだし、映画館とか行かない?」  ずっとタイミングを計っていたのか、彼がやや早口でそう言って、カップを持ち上げて下した。飲まないんだ、と内心思ったけれど、そちらには特に構わないでおく。 「ダイハードとかターミネターでも見たくなった?」  私が背後に貼られたポスターを指すと、彼は、そうじゃなくてと身振りしながらいう 「前見たがってた映画あっただろ。封切りらしいし、一緒にと思って」 「いいわ」  私が短く答えると、彼は嬉しそうな顔を逸らして、無意味に斜め上を向く。私もこっそり俯いて、笑ってしまう口元を隠した。私を好きになってくれる男の人は、大抵この仕種を見せる気がする。わかりやすくて、余裕を与えてくれるようでもあって、好ましい。少し現金すぎるだろうか。  だけどきっと今の私は他の人のそれより、この彼のそれを好ましいと感じるはずだ。それは、むず痒いことだけれど。  少しして、私たちは店を後にした。浮き足立った彼がお釣りをもらい忘れて、愛想のいいお店のおばさんに呼び止められたので、少し恥ずかしい。  何故だか今日はそれも仕方ないなぁと笑ってしまえた。気分がいいからか、絆されているのか、どちらの割合が多いかは微妙なラインだった。  だからなのか、今日私は初めて、彼の家への誘いを断らなかった。  彼にはこちらの都合を考えずに行動を起こす悪癖があって、今日も実はそれほど都合がよくはなかったのだけれど、絆されついでというやつだ。 「ふうん、片付いているのね」  一人暮らしの男の部屋のイメージに反して、彼の部屋は掃除が行き届いている。無難さでいえば私の部屋以上だった。……なんとなく、私を招致するために片づけていたのではないかという気もする。  私も中学生ではないので異性の部屋で二人きりになるということがどういった可能性を呼び込むことなのか理解しているし、そこに嫌悪感もない。  ただ、少しばかり緊張して、いつもより多く栄養剤を流し込む。美味しい。ネズミ(万能兵器)の捜査官にとってもそうかは知らないけれど、元気になる味だ。  出された座布団の上に収まって、台所に立つ彼の背中をぼんやり眺める。 「コーヒー……はさっき飲んだし、麦茶でいい?」 「ええ、何でも構わないわ」  そんなやり取りの後、向き合ってコップを傾けるに至った。いやテーブル挟んで対面かよ、というツッコミは彼の中にもあったらしく、カーテンの端を僅かに除け直すという動作を挟んで少し近くに座ってくる。 「なんだか、不思議な感じだ。君がここに居てくれるなんて」  彼は私の顔をジッと見て、しみじみと甘ったるい言葉を吐き出す。照れが勝るしあまり言いたくないけれど、私は彼のそういう素直なところに好感を持っていた。私が持ち合わせていない良さだ。 「そうね」  同意しながら、私も目を逸らさない。  ……目を閉じるタイミングだとか、首の角度だとか、そんなものは案外、意識されないものだと、この部屋で実演される。  ゆるりと唇を話して、間の抜けた前傾姿勢で、二人、私は近くで鳴る呼吸音を、息継ぎみたいだと思っていた。  もう一度。  触れ合う箇所が口と口だけでなくなって、移っていくにつれ、耐え難く、こみ上げるものがある。息を詰めて必死に押し殺そうとするその感覚は、私の意識を苛む。 「……ま、まって」  耳元を掠める髪と、首筋にかかる息で、ついに私は音を上げる。 「もうだめ、くすぐったい!」  ついに、笑い出してしまった。なんたる失態。 「え」 「……ごめんなさい、我慢してもみたんだけど、ちょっと……」  ぽかーんとする彼の目を見れなくて、私は笑いを収めながら熱くなった頬を掻く。  彼はぺたぺたと手を付き直して姿勢をまっすぐに戻す。それが、視界の端に映っていた。 「そっ……かぁ」  その言葉にやっと彼の顔を除くと、落胆を隠し切れていないような、少しほっとしたような気の抜けた顔をしている。 「少し、待って」  私がはっきり伝えると、彼は意識が戻ったように目の焦点を合わせて、「うん」と頷く。 「そうだね」  あ、再開とかはないな、と、察するものがあった。空気の温度が変わる。  正直私も、彼とどこまでならあり得るのかわからないところがある。それは、まだ学生だから、というより。彼に覚える印象に、なんというか、専業主婦志望のキャリアウーマンにも似た、何か、引っかかるものがあって、 「じゃあ、今はこれだけ」  彼が微笑み私の手にその少し大きな手を重ねるので、思考が中断された。 「またがあればね」  私はてのひらの熱を受け入れながらツンと横を向いて、つっぱねる。  こうして……いつもそうであるように無闇に心遣いを振る舞うのが彼の愛情なら、いつかはそれをすべて、受け入れられるだろうか。そもそも彼はそういったものを、より多く私に注ぐだろうか。  反発や衝突を厭わない信頼、削り合って落としどころに至ることの多い雑な情愛は、彼の中にはない気がしてならないのだ。  私が彼の想いの形を受け入れられるようになるのが先か。彼の想いに新たな形が加わるのが先か。  わからないけれど、それまでは……。 「それじゃあ、また連絡する」 「楽しみにしてるわ、映画」  別れ際、手を振る代わりに軽く上げた彼に、私は『映画』のほうを強調して言った。  あまり浮かれられても、鬱陶しいと思ってしまう気がするのだ。  私の考えなど預かり知らない彼が、苦笑いで目を線にした。  地下鉄に乗り込むための階段を下りながら、ふと思う。  今日の私は「待って」と言ってしまったけれど。  ならば逆に「待つ」と言ったら、彼は私の元へすぐに来てくれるだろうか。  一抹、予感するように小さな不安を抱えて、私は家路に着いた。  彼の部屋で『妹』と題されたAVを見つける、少し前のことだった。